横井庄一記念館・明日への道

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カテゴリ: 横井庄一の記録

「庄一はまだ生きとる」 グアムから帰還前 横井さんの母

先祖代々の墓に抱きつき、「お母さん」と泣き崩れる横井庄一さん=1972年4月、名古屋市中川区で
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/images/PK2013080802100142_size0.jpg
 
 太平洋戦争終結後も米グアム島のジャングルで生き続けた元日本兵の故横井庄一さん。その人生は「恥ずかしながら帰ってまいりました」の言葉とともに有名だが、母親のつるさん(一九五八年に六十八歳で死去)が息子の戦死公報を受けながら生還を信じていたことは、あまり知られていない。横井さんの帰国は母の死去から十四年後。戦争に翻弄(ほんろう)された母子の生涯は、戦後六十八年がたつ今も戦争の悲惨さを教えている。 (藤嶋崇)
 
 「庄一は死んどりゃせん」「まだ生きとる」。横井さんの妻美保子さん(85)=名古屋市中川区=らによると、横井さんが四四(昭和十九)年に戦死したという公報が届いた後、つるさんはそう言い続けたという。「親戚からは『生きとるばあさん』と言われたそうです」。つるさんは五五年に周囲の説得で墓を建てたが、その後も墓の話をすると気に入らない顔をした。
 横井さんは愛知県佐織村(現愛西市)生まれ。生後三カ月ごろ、つるさんが離縁したため同県津島市の実家に移った。つるさんは奉公先に住み込み、親兄弟が身近にいない横井さんは「親なし子」といじめられたという。その後、つるさんは再婚して旧富田村(現・名古屋市中川区)へ。親類の大鹿一八(かずや)さん(59)=津島市越津町=によると、横井さんは「やっと母と一緒に暮らせる」と喜んだが、再婚先の親類と折り合いが悪く、母子でつらい思いをしたという。
 
 美保子さんは「横井はあまり語らなかったが、グアムで苦しさに耐えられたのは母がいたから」と親子の絆の強さを語る。ジャングルでネズミやカエルを食べて生きた横井さんは病気で死を覚悟した際も、母を思い出して「(母が)必ず横で看病をしてくれているから、絶対死にはせん」と自身を励ましたと、著書「明日への道」に記している。
 ただ、つるさんは生存を言い続けたばかりでもなかった。実家近くの空巌(くうがん)院には「昭和十九年九月戦死 横井つるノ息子」と、戦死を前提に横井さんの戒名を記した記録が残る。遅くとも四八(昭和二十三)年までに供養の申し出があったという。住職の三輪高照さん(81)は戦後、つるさんが前住職に「お経を上げてやって」と頼む姿を覚えている。
 大鹿さんは「唯一、血のつながった庄一さんだけが心の支えで、再婚先でも『生きている』と言わざるを得ない心境だったのでは。戦死を受け入れつつ、どこかで生存を願っていた多くの母親に実際は近かったと思う」と推測する。
 横井さんはグアムで発見後、母の死去を知り「親孝行のまねごとすらできなかった」と涙を流した。戦場に散り、長年戻れなかった多くの日本兵。その数だけ、親子の悲しみがある。
 
 <横井庄一さん> 1915年生まれ。洋服仕立業を営み、38年に日中戦争で中国へ出征。41年に再び出征し、44年にグアム上陸。敗戦後も「講和条約を結んでいれば、日本軍はいずれ迎えに来る」と投降せず、72年に現地住民に発見されるまでの28年間、ジャングルで生き抜いた。帰国時に話した「恥ずかしながら帰ってまいりました」は流行語に。日本で美保子さんと結婚し、全国で講演活動などをした。97年に82歳で亡くなった。

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 7月30日の中日新聞一面に、「横井庄一さんの戦死公報信じず」と題した記事が掲載され、戦死公報を受け取った横井さんの母親つるが、「まだ生きとる」と死んだことを否定し続ける一方で、お寺に立派なお墓を建てたり、我家の隣に建つお寺に永代供養を依頼していたことから、息子が死んだとは認めたくないものの、周りで多くの戦死者が出ている現実から、死んだと思うしかない複雑な心境が記されています。
 
 横井庄一さんは生後なもなく母親の離婚によって、母親の実家である我家に連れてこられ、当時は出戻りでは田舎にはおり辛く、母親は奉公先に住み込んで働いたため、母親の姉(私の曽祖母)と娘2人(私の祖母たち)の3人と、我家の大鹿庄一として小学校5年生まで生活しました。
 
 母親の再婚によって横井家に入ったものの、義父以外の親族には辛くあたられ、やっと洋服屋として独立したものの、戦争によって満州からグアム島に転戦し、昭和47年まで帰国できず、帰国したときに母親は他界していました。
 
 新聞記事にも記されていましたが、息子が戦死して横井家の後継者が無くなり、頼りとした夫も亡くなった中で、親族からいじめられ、追い出そうとしたり資産を狙う親族の横槍に、「息子は生きている」という一言が封印し、生きていると信ずることが生きて行く活力になったと私は推察しています。
 
 (下記は横井さんによる幼少時の記録です)
 の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。
 私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 
 
 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
 「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません。
                                    横井庄一手記「明日への道」から
 
 
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生きる意味・命の大切さ学ぶ―横井庄一さんのグアム島28年「生路抄」
サバイバル体験をイラスト本に 厚木市愛名の整体師 岡田裕子さん 『長寿萬福』を出版 

 厚木市愛名に住む整体師・岡田裕子さん(39)=写真左=が、72年グアム島から奇跡の生還を果たした旧日本兵・横井庄一さんの28年におよぶサバイバル体験をイラストに描き、自費出版した。
 グアム島のジャングルの様子や食生活を支えた木の実や食物、火起こしや衣服縫い、食生活の道具、地面を掘って住処にした穴の住居などをていねいに描き、横井さんのサバイバル生活を絵本にした。
 岡田さんが横井さんに興味を持つようになったのは今から20年前の大学2年の時。日本テレビが放映した水曜スペシャル「ザ・サバイバル」に参加したのがきっかけだった。番組は7人の女性が横井さんと一緒にグアム島で2週間のサバイバルを体験する=写真下=というもので、ナイフと水筒、鍋1個以外は何も持たずに、ジャングルで火の起こし方、魚の捕り方、食料になる植物の見分け方、寝ぐらの作り方などを教わった。      
 短期間とはいえ、人間が文明の力のまったく及ばないところで生きていく体験は、やることなすことすべてが驚きの連続だった。その時の横井さんは、町では物静かな人なのに、ひとたびジャングルに入ると、足も身体の動きも早くなり、岡田さんはその時「この人はただ者じゃない」と感じたという。
 これがきっかけで、その後も横井さんとの交際が続いた。ところが95年、岡田さんは欧州旅行先のドイツで交通事故に遭い、数ヶ月間死の世界をさまよった後、帰国してから意識が戻るというサバイバルを体験をしてしまった。岡田さんはリハビリを続けながら、少しづつ治っていく身体と、いつまでもくじけたままの心を抱え、日々「生きることの意味」をボンヤリと考えていた。そして世の中の喧噪に心をかき消されながら「何でこの騒々しい社会に戻ってきたんだろう」と日々自問自答していたという。
 そんな時、横井さんから力強い「長寿萬福」という一幅の書が送られてきた。人が生きていけば楽しいこともあるが、それと同じくらい辛く悲しいこともある。想像も及ばない苛酷な運命に翻弄された横井さんからのこの言葉には、照れ屋で無口だった横井さんの深いメッセージがずっしりと込められていて、生きることの幸せさ、命の大切さ、生きることの意味をしみじみ感じ取ったという。
 その後、奇跡的に回復した岡田さんは、退院してからボランティアやアルバイトを続けながら、命や身体のことをもう一度勉強しようと健康専門学校に通い、2年間で整体師の資格を取得、自宅で整体院を開業した。      
 横井さんは97年に心筋梗塞で亡くなったが、岡田さんは命の大切さを教えてくれた横井さんの記録を残しておきたいと、仕事の合間を見ながら、グアム島での横井さんの28年間に及ぶサバイバル体験をイラストにして描き始めた。
 イラストにはグアム島のジャングル、生活を支えたバナナやパパイアなどの木の実や植物、火の起こし方、ヤシ油のとり方、野ネズミなどの野生動物の捕り方と血抜き、カエルの肝臓を干して使った胃薬、パゴの繊維で織った衣服、28年間の間に6回も掘った穴の住居などを水彩絵の具を使って描き、コメントをつけた。
 本のタイトルは横井さんからもらった書をそのまま生かして『長寿萬福』=写真中=と名付けた。岡田さんは、「横井さんのグアム島での生活を想う時、動物である人間横井さんが、動物の気配を消して限りなく植物に近づいていったような気がしてなりません。常に五感をとぎ澄ましていた横井さんの真似はできるはずもありませんが、便利なコンピュータ社会の中で、ほんの少しだけ自分のアンテナを磨いて鋭くすることなら、私たちにもできるかもしれません。横井さんを通して子どもたちに生きることの大切さを学んで欲しい」と話している。
 B5判45頁。1部1.500円。有隣堂厚木店、内田屋書房一番街本店、ブックス・ウチチダヤ厚木ビブレ店で発売中。郵送購入の方は市民かわら版出版局へ。送料310円。

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この手紙は、戦地から横井庄一が津島市(旧神守村)の大鹿家に送ってきた手紙です。大鹿英雄は庄一の伯母(戸主)の孫、昭和20年6月沖縄にて戦死。

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横井庄一が幼少期をおくった津島市に残された戸籍謄本です。
戸主「大鹿はる」は、庄一の母親「つる」の姉

横井庄一は生後まもなく母親の里「大鹿家」にもどされ、横井家に出る小学校5年生まで「大鹿庄一」として津島市(旧神守村)で生活しました。

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