「庄一はまだ生きとる」 グアムから帰還前 横井さんの母

先祖代々の墓に抱きつき、「お母さん」と泣き崩れる横井庄一さん=1972年4月、名古屋市中川区で
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 太平洋戦争終結後も米グアム島のジャングルで生き続けた元日本兵の故横井庄一さん。その人生は「恥ずかしながら帰ってまいりました」の言葉とともに有名だが、母親のつるさん(一九五八年に六十八歳で死去)が息子の戦死公報を受けながら生還を信じていたことは、あまり知られていない。横井さんの帰国は母の死去から十四年後。戦争に翻弄(ほんろう)された母子の生涯は、戦後六十八年がたつ今も戦争の悲惨さを教えている。 (藤嶋崇)
 
 「庄一は死んどりゃせん」「まだ生きとる」。横井さんの妻美保子さん(85)=名古屋市中川区=らによると、横井さんが四四(昭和十九)年に戦死したという公報が届いた後、つるさんはそう言い続けたという。「親戚からは『生きとるばあさん』と言われたそうです」。つるさんは五五年に周囲の説得で墓を建てたが、その後も墓の話をすると気に入らない顔をした。
 横井さんは愛知県佐織村(現愛西市)生まれ。生後三カ月ごろ、つるさんが離縁したため同県津島市の実家に移った。つるさんは奉公先に住み込み、親兄弟が身近にいない横井さんは「親なし子」といじめられたという。その後、つるさんは再婚して旧富田村(現・名古屋市中川区)へ。親類の大鹿一八(かずや)さん(59)=津島市越津町=によると、横井さんは「やっと母と一緒に暮らせる」と喜んだが、再婚先の親類と折り合いが悪く、母子でつらい思いをしたという。
 
 美保子さんは「横井はあまり語らなかったが、グアムで苦しさに耐えられたのは母がいたから」と親子の絆の強さを語る。ジャングルでネズミやカエルを食べて生きた横井さんは病気で死を覚悟した際も、母を思い出して「(母が)必ず横で看病をしてくれているから、絶対死にはせん」と自身を励ましたと、著書「明日への道」に記している。
 ただ、つるさんは生存を言い続けたばかりでもなかった。実家近くの空巌(くうがん)院には「昭和十九年九月戦死 横井つるノ息子」と、戦死を前提に横井さんの戒名を記した記録が残る。遅くとも四八(昭和二十三)年までに供養の申し出があったという。住職の三輪高照さん(81)は戦後、つるさんが前住職に「お経を上げてやって」と頼む姿を覚えている。
 大鹿さんは「唯一、血のつながった庄一さんだけが心の支えで、再婚先でも『生きている』と言わざるを得ない心境だったのでは。戦死を受け入れつつ、どこかで生存を願っていた多くの母親に実際は近かったと思う」と推測する。
 横井さんはグアムで発見後、母の死去を知り「親孝行のまねごとすらできなかった」と涙を流した。戦場に散り、長年戻れなかった多くの日本兵。その数だけ、親子の悲しみがある。
 
 <横井庄一さん> 1915年生まれ。洋服仕立業を営み、38年に日中戦争で中国へ出征。41年に再び出征し、44年にグアム上陸。敗戦後も「講和条約を結んでいれば、日本軍はいずれ迎えに来る」と投降せず、72年に現地住民に発見されるまでの28年間、ジャングルで生き抜いた。帰国時に話した「恥ずかしながら帰ってまいりました」は流行語に。日本で美保子さんと結婚し、全国で講演活動などをした。97年に82歳で亡くなった。