横井庄一記念館・明日への道

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2008年02月

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グアム島での生活道具です

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発見当時の洞穴です

 横井庄一記念館の一日でしたが、「先週は誰も来なくて」との言葉と同じく、本日は東京から訪れたテレビ局の撮影だけで来客がありませんでした。

 自宅を出る時には快晴だった天候は一瞬で、昨晩と同じく時雨だし午後には雪が降り注ぎ、人々の出足を阻み、取材がなければ一人の来館者もない一日となるところであった。もっとも畑で採れた野菜を持って訪問した知人は、取材と聞いて野菜を置いて帰ってしまいました。

 さて、今回は戦時中に横井庄一が私の伯父「大鹿英雄」に送ってきた手紙(下記添付)が取り上げられている。

 戦地からの手紙 http://blogs.yahoo.co.jp/oshika59/7227579.html

 手紙を読んだだけでは内容が判らないと思うが、出征で不在の横井洋服店の仕事の材料となる布地を伯父が売り払ってしまい、伯父はそのお金で新品の自転車を買って走りまわっている事を知って、戦地から送られてきた手紙である。

 (テレビ局)「大鹿英雄と横井庄一の関係は?」 (館長)「いとこです」 (私)「いや、いとこの子供です」 (館長)「あっ、そうか。お父さんの兄弟だもんね」 (テレビ局)「遠い関係ですかね?」 (館長)「遠くはないわよッ、お母さんの在所だから」 (テレビ局)「どう表現すれば良いですかね?」 (私)「スジカイいとこらしい」 (テレビ局)「血のつながりはあるんですか?」 (館長)「そりゃーあるわよ、一緒に暮らしていたんだから」 (テレビ局)「えっ?」 (私)「大鹿庄一時代の同居人だから」 (テレビ局)「えっ?」 (館長)「弟みたいなそんざいかなッ」 (テレビ局)「えっ?」

 昭和47年に発見されてから30数年が経過し、当時を知る記者たちはほとんどが引退し、取材する記者達は横井庄一そのものも知らずに訪問するようなものだから、横井庄一の経歴どころか、性格や人柄もわからず、我々が語っても真意が伝わらない。

 本日添付した手紙には横井庄一の性格がひじょうに良く出ている。本来なら、自分の商売道具を売られて持っていかれた怒りがあるに決まっているが、手紙の文面では私の伯父を誉めて親元に渡すように求めている。「こらーッ、すぐに返せ」と記されていない事に横井庄一の生い立ちと性格を垣間見ることができるのである。
                              2月17日の一言
横井庄一の生い立ち http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/newpage8.htm

今週の横井庄一記念館 2月3日 

http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/folder/994751.html

 つい先日と思われる正月が既に節分を迎えており、本日は各地で節分の豆まきが行われたが、荒天の雪空から雨の冷たい一日と化し、横井庄一記念館も午前中は来客があったものの、午後は誰一人も訪問のないお茶会の一日で閉館となった。

 午前10時に開館し、オープンして半年は昼休みも取れぬ忙しさが、ここ半年ほど前からは早すぎるような昼食となり、ここから閉館する午後4時半までは時間が停まったような空間で身体を持て余しぎみとなっている。

 昼食の場所も開館当初は人目につかぬ応接間で声を潜めていたものが、いつしか日当たりの良い縁側となり、最近は来客をもてなす仏壇前の座卓で主人公のような昼食となった。それでも昼食後に来館者があれば救われるが、誰も訪問がないと昼食後は睡魔が襲ってくる。

 そして暖房がしてあるとは言っても、うっかりと居眠りでもすれば風邪となりかねず、居眠り中の私一人にストーブが3台も向けられ、座布団が足元にかけられていた。私一人の居眠りが記念館をより静寂にして、館長とボランティアのTさんが私を起こさぬため静かに座っている様子が想像できるでしょうか。

 「こんな事ではいけない」と、来館者に期待してストーブを切り、展示室のエアコンのスイッチを入れたが、結局は3時のお茶と、お別れのティータイムのみでの閉館となってしまった。
 三人でも一日の経過がこんなに長いのに、館長である夫人は毎日一人で何をしているのかと思ってしまうが、開館当初は来客の多さに悲鳴をあげていた事が、思い出せないくらい暇な留守番となりつつある。

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